1993 12/30 〜 1994 1/6
ルクソールの東岸は遠くテーベの時代より、「生者の都」と呼ばれて神殿を中心に人々が生活していた。 それに対し太陽が沈むルクソールの西岸は、再生・復活を意味する「死者の都」(ネクロポリス)と呼ばれ墓所とされてきた。ナイル川をフェリーで渡った西岸の王家の谷にはツタンカーメンやラムセス2世をはじめ、新王国時代のファラオたちの墓が集まっている。これまでにおよそ70の墓が発見され、1922年にはほぼ未盗掘に近いツタンカーメン王の墓が発見された。 | |
王家の谷 バスを降りて、王家の谷の入り口までは、遊園地にあるような電気自動車に乗って墓まで行く |
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王家の谷の入場券で3つの墓に入れる |
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墓の内部は撮影禁止なので入り口での写真 | |
黄金のマスク |
1922年にほぼ未盗掘に近いツタンカーメン王の墓が発見された。 王家の谷62号墓。この墓を発見したとき、「何か見えるかね」というカーナヴォン卿に対して、ハワード・カーターは「はい、すばらしいものが」と答えるのが精一杯だったという。カーナヴォン卿は翌年、病死。同時にカイロ中が停電になり、愛犬が悶死。数年の間に関係者が20人近く亡くなっている。これが「ファラオの呪い」といわれる由縁だ。ツタンカーメンの副葬品は現在、カイロのエジプト博物館に収まっているが、王の遺体は今でもここの墓に眠っている |
「ツタンカーメンの墓」を発見した時、ツタンカーメン王棺の上に枯れた花束が置かれていた。発見当時、まだその花にはほんのりと色が残っていたらしい。それは若い王妃アンクエスエンアメンが、亡くなったツタンカーメン王にと置いた矢車草だった。カーター氏は、「あたりに輝く黄金より、枯れた矢車草のほうがずっと美しく見えた」 と涙を流したそうだ。カーター氏の心優しい人柄、若くして王を失った王妃はどんな気持ちでその花を置いたのだろうか? | ツタンカーメン王の黄金の人型棺 |
ツタンカーメン墓の案内図 |
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ラムセス4世の墓 |
王家の墓の周辺はごつごつした岩肌が広がる場所。ファラオたちは墓荒らしの盗掘を逃れるため深い谷を掘り下げて墓を作った。 しかし墓のほとんどは盗掘に遭い、一緒に埋葬されていた財宝はほとんどがもぬけの殻であった。でも壁面のレリーフは生きており、日光を閉ざした環境にあったため、今でも当時の美しい色を眺めることができる。写真はそのうちの1つ、ラムセス4世の墓。 玄室への通路の壁と天井には、一面にとても保存状態のよい壁画が描かれている。 |
ヌゥト女神の口から飲み込まれる太陽 (ラムセス4世墳墓天井部) |
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車で少し走ると、盗掘者が住んでいたクルナ村という集落が見えてくる。その昔、貴族の墓の上に家を建てて、墓から掘り出した金目の埋葬品を売って生活していたのだという。現在は墓泥棒は出来ないから、代わりに近くで採れるアラバスターの彫り物で生計をたている。 | |
ハトシェプスト女王葬祭殿 | ここは、1997年秋、反政府ゲリラによる銃乱射事件で多くの観光客が銃殺された舞台としても有名だ。ルクソール虐殺事件 と呼ばれるそのテロ事件では、スイス人43人、日本人10人、イギリス人3人など、計63人が殺害されたところである。 |
古代エジプト史上珍しい女性のファラオのハトシェプスト女王がトトメス1世と自分のために、今から3500年前に建設。切り立った断崖を背にした3段テラスのこの遺跡は荘厳かつ美しい建築物 |
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葬祭殿の左端にはハトホル女神の礼拝堂があり、その小さな柱列室の柱の上部にはハトホル女神の頭部が彫られている。頭の上にコブラを抱く。 | |
ハトシェプスト女王葬祭殿の岩窟至聖所の壁画 |
集合写真 |